サッカー愛好会の歴史

立教大学サッカー愛好会は2017年に創立50周年を迎えます。

現役はもちろんのこと、OBの中にも知らない人が多いため、阿久津OB会理事長(昭和45年度卒)執筆のクラブの歴史を掲載します。

愛好会が誕生した一九六七年(昭和42年4月)当時、わが国は、東京オリンピック(一九六四年十月)後三年が経過、経済は引続き右肩上がりの高度成長を維持、活況を呈していました。当時の学生アルバイトの日給は八百円、初任給は一万三千円の時代、若者の間では、所謂アイビー・ルック(アメリカの学生のスタイル)が流行。我々の間ではマンシングウェアー・ラコステなどのワンポイントのマーク入りのポロシャツを着るのが流行していました。

また、当時のサッカー界は如何であったかと言えば、大学と実業団(東洋工業、日立、古川、三菱重工など)のアマチュアが中心で、ワールドカップ出場などは全く手の届かないところにありました。

立教のサッカー部は実業団とも互角に戦える力があり、天皇杯で決勝に進出するなど意気軒昂でした。そんな時代、サッカーをする場は体育会サッカー部以外、学内、学外ではありませんでした。そこでサッカー好きの立教高校出身の二年が集まり、立教大学サッカー愛好会を設立しました。

設立時に集まったのは二年生、一年生とも三十名前後でしたでしょうか。いざ始まってみると設立メンバーの大半は高校時代を含めサッカー部に在籍者していない人達でしたから、ハード、ソフト両面で準備不足が露呈し、二ヶ月もすると経験者から不満が続出。遂に愛好会の運営方針で、一言で言えば硬派と軟派の路線対立があり、部員総会にて設立メンバーは全員退部する事態となりました。新たに経験者をキャプテンに選出し、三年生一名、二年生五名、一年生十五名で再出発しました。このメンバーの中には過去ユース代表候補に選出された人、全くの素人などサッカー経験は千差万別でしたから、練習の際、経験者は良く素人の面倒も見てくれて、後年にはその中からレギュラーを脅かす人材も育ってきました。

今度は前輪の轍を踏まない様、練習の傍らマネージャーを中心に大学に登録団体の申請をするため顧問の先生探し、練習場所の確保、新関東リーグへ加盟など組織の確立に全力を尽くしました。幸い立教高校サッカー部出身の一年生が大学体育科の講師を良く知っていたので、彼らが、顧問就任の依頼、練習場として神学院グランド(現立教池袋高校グランド)の使用許可を取付てくれました。これで漸くリーグ戦に参戦出来ると張り切っていたところに、新関東リーグ事務局から加盟申請が遅かったので、加盟は来年からとの連絡を受けました。

一難去ってまた一難、この間、執行部はモチベーションの維持のため、色々なチームとの練習試合を組み、中でも同好会とは試合しない大学のサッカー部にも、直接大学に出向いて練習試合をお願いに行きました。その結果、東経大サッカー部(関東大学サッカーリーグ三部)、獨協大サッカー部(関東大学サッカーリーグ二部)が試合に応じてくれ、東経大には勝ちましたが、負けた東経大の部員が監督に喝を入れられているのを目の辺りにして、東経大の部員に申し訳ない気持ちと改めて体育会の厳しさを再認識したものでした。

また、独協大戦は四対〇と言う散々な結果で、関東リーグ二部の実力を見せ付けられました。東経大に勝ってやや天狗になっていましたので、自分たちの実力を知る良い機会となりました。

翌年の一九六八年(昭和43年3月) に新関東リーグに加盟承認されたのを機会に、運営団体を立教大学サッカー愛好会、チーム名を立教大学リベリオンSCとし、チームカラーは校旗と同じ濃紺と黄色と補助色として白を決め、初代のユニホームは黄色に三位一体のロゴ、パンツは濃紺、ストッキングは黄色としました。 翌年に濃紺の地に黄色の十字、袖が白、当時では斬新なデザインのユニホームに変えリーグ戦の臨みました。その後、毎年デザインを変えることが恒例となって行きました。リーグ戦の結果は二部リーグで優勝しましたが、一部昇格の入れ替え戦で引分となり、一部昇格は果たせず、一部への昇格は翌年となりました。

これまでの経験を基に次のような部員が守るべきルールも作りました。

一、理由なく練習を欠席することは認めない。欠席が多ければ試合には出場させない。

二、授業を優先し、授業があれば練習の欠席を認める。

三、大学から始めた初心者であっても、経験者が指導し、試合に出場できる機会を与える。

四、対外試合・合宿には学生服の着用する。

このルールは愛好会の性格が体育会(厳しさ)と文化会(民主性)の両面の良さを持ちたいとの思いから決めたものです。今様に言えば『学業との両立、機会均等、規律遵守して、サッカーを楽しみ、有意義な学生生活を送る』と言うことになるのでしょうか。

当時は活動理念を策定すると言う発想はなかったのですが、結果として愛好会が目指す方向性を示したものになったと思います。『体育会と文化会の両面の良さ』を標榜したものの、バランスを取るのが難しく、ルールを厳格にして、やや体育会的運営をしていくことになりました。

またチーム名のリベリオンについても、少し説明を加えておきたいと思います。リベリオンは英語の反抗とか反撃の意味です。現役のホームページに「体育会サッカー部に対抗して・・・・」と、やや敵対的なニュアンスの書き方ですが、我々の

意図は敵対的な意味ではなく、愛好会は「単なる仲良しクラブではなく、活動理念を持った立派な同好会である」と外に向かって言いたかったからです。設立当初は、体育会から愛好会に移る人もいましたので、体育会は訝しく思っていたのではないかと思います。

四十年近く前の話で記憶が定かでない部分もありますが、設立当時の経緯やらエピソードを思い出すまま書きました。

今でも、この「活動理念」は風化していないのではないかと思っています。現在、OBは五百十一名、先のOB総会及び祝賀会には百十一名が出席してくれました。このことはOBが如何に愛好会に愛着を持っているかの証でもあります。この様な気持ちを持ったOBが学生諸君を見守っていることをしっかりと後輩に伝えて頂きたいと思っています。

学生諸君には愛好会を通じて実り有る学生生活を送り、愛好会の発展に尽力していただきたいと願っています。OBは出来る限り支援していきたいと思っています。

以 上

平成十七年十月八日

「サッカー愛好会の歴史」への2件のフィードバック

  1. 全く当たってます。私は肥田、星野、加藤(恭三)、阿久津君の1年先輩の高松です。今は佐川と所沢立教会です。先日このサッカー愛好会があるのを知りました。春になったら新座のキャンパスにうかがうかも。

  2. 先程の佐川(高松)です。私が卒業の時送別会をしてくれた写真もアルバムにあります。

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